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😶 【放浪者紀行】第一篇|記録 07 時間というものは、目に見えません。そして、その価値は変動します。 若者にとっての青春時代とは、いつまでなのか。老人にとっての残された余命は、どれほどなのか。 ある日突然亡くなった友人と、かつて言葉を交わした時間。その重みたるや、いかばかりのものや。 「あの時もっとこうしていれば」「なんで気づかなかったのだろう」 モシとかタラとかレバーとか、酒が美味くなりそうな苦い想いを抱え、有限の時を終末へ向け、人は今日も生きています。 さて、放浪者紀行。 プレイヤーAが、ある男の後を追いかけ始めました。単独行動です。 どうやら、何か気になることがあるようです。 しかし、相手の向かう先は町の外。 どこまで追いかけるかにもよりますが、コストとして相応の時間を支払う必要があるでしょう。 それは、今すべきことなのか。正しい選択なのか? 三人しかいない人材。半日しかない時間。 その中で、それを選択することが良いことか悪いことか。私には、わかりません。 まぁそんなもんはね、お前さん、いつだってやってみなけりゃあわかんないだろ。人生には、妙手か悪手かわからない一手を打たなければならない場面もあるんだよ。 好きにさしてやんなよ。それを問うのは野暮ってもんさ。 と、私の横のダイスの女神が突然、長屋のお隣のおばちゃんのように諭してきます。 かといって、一度「はい」を押してしまったら、前の画面に戻れない。 そんな仕様では、2026年現在のゲームデザインとしては、出来の悪いUXと言わざるを得ません。 一つしかない食券販売機で思うように牛丼を買えないときのようにイライラするのも、それを笑い話にするのも、まぁ人情ではあるのですが。 設計の問題で解決できるのであれば、事前に回避した方が良いでしょう。 本当に行きますか? 今、ここから引き返しますか? その確認をしてなお、旅人が行くのだというのであれば、北風も太陽も、もはやどうにもできますまい。 よろしい。ならば、その先を見に行こうじゃありませんか。それは、私の知らない世界だ。 荒野のチェイス。響く銃声。目撃と問答。駆け引きと、葛藤。ダイスの示した運命。 もしも人の人生に筋書きというものがあり、それを書くものが神であるとしても、それを書き換えることができるのが人でしょう。 そして、それが良いことだったのか、悪いことだったのか。そんなのは、後になって思い知れば良い。 冒険に必要なのは、いつだって、情熱と覚悟と行動です。 さて、プレイヤーAが支払ったのは、時間という代償です。 そこで得たものを、活かすも死なすも、この後のプレイヤーBとCの行動次第ということになります。 パーティを組むという行為には、バトンをつなぐという一面もあります。 忘れないでいただきたい。「相談」は、いつでもできるのです。 一方、その二人はというと。 突然席を外したプレイヤーAの代わりに、領主館の受付嬢から情報を収集するため、そして彼の起こした粗相をフォローするため、あれやこれやと苦心しながら、会話を繋いでいます。 ところで、『ゾーキング』という言葉があります。 これは、知っていることしか知らない私のささやかな脳みそを参照しますと、冒険企画局の魚蹴氏がGMを務めた『マルチジャンル・ホラーRPG インセイン』のリプレイで提唱された言葉。 曰く、『ゾーク』という、黎明期のテキストアドベンチャーにおいて、「はなす」「しらべる」「さがす」などと、ゲームシステム側に用意された選択肢をがむしゃらに試して情報収集をしていた情景に例えて、作られた言葉であるようです。 (参考:河嶋陶一朗/冒険企画局『マルチジャンル・ホラーRPG インセイン スタートブック1』新紀元社、2025年) これは少し不思議な現象だな、と私は思います。 元来、TRPGとは、「ゲームシステム」ではない「人間」が相手であるからこそ、プレイヤーはどんな自由な発想や行動も試みることができる。 ときには、あらかじめ用意された展開ではない道筋を選び、誰も知らない結末を紡ぐこともできる。 ……そういう遊びであったのではないかと思います。 ゾーキングという言葉は、事前に展開を用意することしかできないCRPGの、「システムに用意された選択肢」を虱潰しに押すという行為を連想させます。 それをTRPGに当てはめるとは、なんだか矛盾しているような気もするのです。 我々は、誰を相手にゲームをしているのでしょう。 あらかじめ用意されたコマンドしか理解できないコンピュータでしょうか。それとも、こちらの言葉を聞き、考え、応じることのできる人間でしょうか。 補足として。CRPGを含む全てのゲームクリエイターとプレイヤーの先達へ、私の持てる最大限の敬愛と賛辞を送りたい。先人達の並々ならぬ努力と死闘の末に、私たちは今日この時を楽しんでいる。そして、昨今の大規模言語AIの進化の果てには、ある一人の人間の思想を模倣したTRPGシステムの完成は、そう遠くない未来に起こるだろう。その時間から振り返れば、さて、今の私の想いなど、どれほどの意味があるものやら。余談。 たとえば、「GMというシステムが、何を用意し、期待しているかわからないから、何を質問すればよいかわからない」。 もし、プレイヤーの内側で、そのような思考が起きているのであれば、では、プレイヤーがそのように考えるようになったのは、なぜなのでしょう。 たとえば、シナリオに書かれていないことを調べてみたところ、GMから「そこには何もありません」と返される。 何か思いついて試してみても、「それは想定していません」と返される。 そんな経験を繰り返していれば、プレイヤーは学習してしまうかもしれません。 なるほど。この世界には、あらかじめ用意された正解があるのだ、と。 そうであるならば、余計なことを考えるよりも、GMが用意した情報を想像し、それに合った正しい質問を選ぶほうがよい。……実に合理的です。 さて、これは、プレイヤーの想像力が乏しくなったというお話なのでしょうか。 それとも、私たちGMをする者が、そのように遊ぶことを教えてきたのでしょうか。 もっとも、GMとて人間、万能ではありません。 用意していない人物について尋ねられても、咄嗟に答えられないことはあります。 想定外の行動に応じようとして、物語が収拾のつかない方向へ転がってしまうこともあるでしょう。 そうした困難を解決するために、ゲームデザインは進歩してきました。 TRPGは幾らかの世代を経て、その間に私たちゲームクリエイターは知見を蓄えました。 やれ不親切なUIは良くないだの、ゲームの正解はあらかじめゲームの中で用意されたもので解決できるようにするべきだの。 プレイヤーの取るべき行動って、要約すればこれだけだよね。カードにできない? 感情ってアイテム化できるよね。それをリソースにしてゲーム的効果にすると燃えるよね。 エモいは作れるよね。 遊びやすくするために、選択肢を整理する。 迷わず進めるように、情報を配置する。 誰もが物語を楽しめるように、仕組みを整える。 技術が発達してツールが生活を便利にするように、ゲームも作法が確立されていきました。 その結果として、本来TRPGという遊びが持っていた可能性が、ゾーキングという言葉に再変換されたのであれば。 なんだろう。卵と鶏はどちらが先か考えているときのような、そわそわとした、妖精にどこかをくすぐられているような感覚にも陥ります。ああ、ここに塩はないものか。 私たちは、ゲームを遊びやすくしてきたのでしょうか。 それとも、遊びやすいゲームに合わせて、私たち自身が変わってきたのでしょうか。 まぁ、言葉の定義など、時代によってコロコロ変わるのですから。それこそ卵のように。 過去の古い考えに縛られて拘泥すれば、進化を失うでしょう。 いつだって私たちが直面するのは、今この瞬間の生き方であります。 ならば想いを馳せるべきは未来のために。 この卓における未来――クライマックスは、もうすぐそこに迫っているように思えます。 プレイヤーたちは、今回のセッション時間が終了して解散した後にも、小一時間、自分たちは何をするべきなのか、真剣に話し合っていたことがうかがえるログが残っておりました。 この拙い物語で、そこに至っていただけたのであれば、もはや思い残すことはないでしょう。 あとはどのような結末を迎えるのか。最後まで付き合い、見届けるのみです。 放浪者紀行は、『またたびもの』として生まれました。 「何も変えない」「変えられない」で終わるも、また一興。 人が運命を変えるなど、不必要なことかもしれません。現実は、必ずしもドラマチックに終わるとは限らない。 ただひとつ、私が思うのは。 木枯し紋次郎の「あっしには関わりのねぇことで」という台詞の魅力は、その言葉のうわべ通りの意味ではなく、紋次郎自身の行動によって際立ち、私たちの心に刺さるのではないか、ということです。 願わくば、紋次郎のような旅人に、この体験を経た旅人たちが育っていけば。 いや、物語が人を育てるなど、作り手の理想と幻想かもしれない。で、あるならば。 「どうか、素敵な冒険を。」 GMの願いなど、いつだって、ただそれだけです。 記録日:2026-10-17 記録者:liberbook 本文文字数:3,728字(改行除外)
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